⑥日本人の『思いこみ』を考える [物理性心理学から学んだこと]
今日は物理性心理学の観点から、自分なりに日本人の『思い込み』について考えてみました。
前のブログを読んでいただけた方にはおわかりいただけると思いますが、私たちが判断材料にしている記憶は実はとてもあてにならないもので、ほとんど思い込みだったりする、と述べました。
記憶が意外にもあてにならないものであることを知ると、物の見方が変容します。今まで自分が信じて疑わなかったことも本当にそうだろうか、と思うようになったりします。天外先生がおっしゃるには、正しい知識を持っているのとそうでないのとでは全く違うそうです。ただ、問題はその正しいと思っているものが果たして本当に正しいのか、ということなんですね。
わたしは私たち日本人が生まれてからこの方どういう思い込みの上に自分の思考を重ねてきたのか、ということを自分なりに考えてみました。
そこでひとつ思い当たったのは私たちが幼い頃から何度も読み聞かせられている童話についてです。外国の童話はイソップ童話などは、意味深長なお話が多いと思います。『旅人の上着を北風は脱がせられなかったが、太陽は脱がせられた。』とか、『犬が水辺に映った自分の姿を見て、そちらの肉も取ろうと吠えたら今噛んでいる肉を水の中に落としてしまった。』とか。
一方、日本の童話の共通点は何でしょうか。そこに流れているのは勧善懲悪の思想だと思います。いいことをしていたおじいさん(なぜかおじいさんが多い)は最後には努力が報われたり、お金持ちになったり、幸せになったりします。反対に狡い人や欲張りな人、意地悪な人は懲らしめられたり、悪い結末が待っています。
人間誰しも、いいことをしていたら、いい未来が待っていると信じたい。悪い人よりいい人により幸せになってもらいたいと願うのも人情だと思います。
確かにいいことをしていたら、他人からも好かれるし、信頼も得られ、重んじられたり、困ったときには手をさしのべてくれることも多いことでしょう。でも、たとえばいい人は災害に巻き込まれないか、というと、けっしてそうではありません。津波がいい人を避けていく、なんてことはないのです。
いいことをしていても悪いことは起こる。悲しいことにも理不尽なことにも出会う。それが人生であると思うのです。そういうとき、人は往々にして「なんで・・・?」とつぶやきます。
人生には意味のないことはない!なんていう人も中にはいますけど、でも人生には理由のないことだってたくさんあるとわたしは思うのです。
いいことをしたって、いい人生になるとはかぎらない、だからいいことなんかする必要はない、などと言うつもりは毛頭ありません。ただ幼い頃聞いた昔話のようにはならない、ということだけは心の隅っこに置いておくべきではないかと考えます。
物理性心理学では過去と未来はなくて現在(もっと正確に言えば、この一瞬)しか存在しない。タイムトラベルのドラマを観ていると、ついつい錯覚してしまいそうになりますが・・・。実際には過去は記憶のデータ、未来は期待と予想のデータなそうです。なるほど、と思います。
そう考えると、仏教ではないですけれど、『今ここ』を大切に重ねていくしかないのだとしみじみ思う今日この頃です。同時に、自分が今までいかに『今ここ』をテキトーに生きてきたかを省みるとき、自分が情けなくて仕方がなくなるときがあります。
にんげんは(動植物もそうだと思いますが)ひとたび生まれたらずっと先に死があるのではなく、常に平行して生と死がある、アルボムッレ・スマナサーラ氏は「死なないから生きている」と表現しています。生と死が常に並んであると思うとき、人は本当に一瞬一瞬を大切に愛おしく生きられるのではないでしょうか。
前のブログを読んでいただけた方にはおわかりいただけると思いますが、私たちが判断材料にしている記憶は実はとてもあてにならないもので、ほとんど思い込みだったりする、と述べました。
記憶が意外にもあてにならないものであることを知ると、物の見方が変容します。今まで自分が信じて疑わなかったことも本当にそうだろうか、と思うようになったりします。天外先生がおっしゃるには、正しい知識を持っているのとそうでないのとでは全く違うそうです。ただ、問題はその正しいと思っているものが果たして本当に正しいのか、ということなんですね。
わたしは私たち日本人が生まれてからこの方どういう思い込みの上に自分の思考を重ねてきたのか、ということを自分なりに考えてみました。
そこでひとつ思い当たったのは私たちが幼い頃から何度も読み聞かせられている童話についてです。外国の童話はイソップ童話などは、意味深長なお話が多いと思います。『旅人の上着を北風は脱がせられなかったが、太陽は脱がせられた。』とか、『犬が水辺に映った自分の姿を見て、そちらの肉も取ろうと吠えたら今噛んでいる肉を水の中に落としてしまった。』とか。
一方、日本の童話の共通点は何でしょうか。そこに流れているのは勧善懲悪の思想だと思います。いいことをしていたおじいさん(なぜかおじいさんが多い)は最後には努力が報われたり、お金持ちになったり、幸せになったりします。反対に狡い人や欲張りな人、意地悪な人は懲らしめられたり、悪い結末が待っています。
人間誰しも、いいことをしていたら、いい未来が待っていると信じたい。悪い人よりいい人により幸せになってもらいたいと願うのも人情だと思います。
確かにいいことをしていたら、他人からも好かれるし、信頼も得られ、重んじられたり、困ったときには手をさしのべてくれることも多いことでしょう。でも、たとえばいい人は災害に巻き込まれないか、というと、けっしてそうではありません。津波がいい人を避けていく、なんてことはないのです。
いいことをしていても悪いことは起こる。悲しいことにも理不尽なことにも出会う。それが人生であると思うのです。そういうとき、人は往々にして「なんで・・・?」とつぶやきます。
人生には意味のないことはない!なんていう人も中にはいますけど、でも人生には理由のないことだってたくさんあるとわたしは思うのです。
いいことをしたって、いい人生になるとはかぎらない、だからいいことなんかする必要はない、などと言うつもりは毛頭ありません。ただ幼い頃聞いた昔話のようにはならない、ということだけは心の隅っこに置いておくべきではないかと考えます。
物理性心理学では過去と未来はなくて現在(もっと正確に言えば、この一瞬)しか存在しない。タイムトラベルのドラマを観ていると、ついつい錯覚してしまいそうになりますが・・・。実際には過去は記憶のデータ、未来は期待と予想のデータなそうです。なるほど、と思います。
そう考えると、仏教ではないですけれど、『今ここ』を大切に重ねていくしかないのだとしみじみ思う今日この頃です。同時に、自分が今までいかに『今ここ』をテキトーに生きてきたかを省みるとき、自分が情けなくて仕方がなくなるときがあります。
にんげんは(動植物もそうだと思いますが)ひとたび生まれたらずっと先に死があるのではなく、常に平行して生と死がある、アルボムッレ・スマナサーラ氏は「死なないから生きている」と表現しています。生と死が常に並んであると思うとき、人は本当に一瞬一瞬を大切に愛おしく生きられるのではないでしょうか。
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